人間と動物の大きな違いとしてまず挙げられるのが、理性に基づいた文化的生活を行うことでしょう。しかし、その違いは人間として生まれた時点で確立されているのでしょうか。
この疑問に1つの視座を与えてくれるのがアヴェロンの野生児研究です。それでは、この野生児研究が心理学にもたらした意味とはどのようなものなのでしょうか。事例を挙げながらわかりやすく解説していきます。
目次
アヴェロンの野生児とは
アヴェロンの野生児とは、1800年1月に南フランスのアヴェロンという地域で保護された少年を指しています。
この少年は、発見当時12~13歳であり、服を着ておらず、言葉を介した意思疎通は不可能で誰かに育てられた形跡がないため、森の中で数年間一人きりで過ごしていたのだと考えられています。
ピネルによる診断
アヴェロンの野生児は1800年1月に保護されてから7月までアヴェロンの県庁所在地であるロデスの中央学校で保護されていました。その後、フランス政府からの命令で8月にパリに移送され、人間観察家協会の監督のもとパリの国立聾唖学校に収容されます。
そして、人間観察家協会はフランス最初の精神科医であったピネルに対し、アヴェロンの野生児の診断を依頼します。
ピネルは、野生児が次のような理由から知的障害児であるという診断を下しました。
「この少年には視線が定まらない、聴覚の感度が乏しい、運動の協応能力が乏しいなどの正常の範囲から逸脱した行動が認められる。突然笑いだしたり、発作も認められ、情緒的に不安定で、学習が出来る状態ではない。さらに、口もきけない」
ピネルはこのような特徴がいつも勤務している精神病院に収容されている重度の知的障害児の行動特徴そのものだと考えました。
そのため、アヴェロンの野生児も治療不可能な重度の知的障害児であるという結論を下したのです。
イタールの登場
ピネルによってアヴェロンの野生児は生まれつきの知的障害であり、治療不可能であるという結論に異を唱えたのが、収容された聾唖学校の医師であるジャン=マルク・ガスパール・イタールという人物です。
彼はアヴェロンの野生児にヴィクトールという名前をつけ、どのようにすればヴィクトールを教育できるのかを模索しました。
つまり、イタールは生まれつきの知的障害ではなく、野生での長い生活を送っていたことにより、今の状態を作ったのであり、これからの教育的働きかけによって改善させることができると考えていたのです。
イタールがこのような考えに至るには理由がありました。
イタールはヴィクトールの次のような観察記録から伺うことができます。
ロデーズというところにいた頃、ヴィクトールは豆の皮をむく作業に熱心だった。その技術は人並みのものではなく、すごい速さで中身の豆とさやを左右それぞれに積み上げていった。良質な豆は鍋に入れ、カビが生えていたり、ひどく汚れているものは取り除く、万が一豆がこぼれたりするとそれを目で追いかけて拾って他のものと一緒にした。仕事が終わると鍋を持ち上げて水を注ぎ、火のところへ持っていく。
このような系統立てられた作業を遂行し、豆の質を選別することは重度の知的障害児には行えません。
そのことは寒さの厳しい森の中で動物の攻撃から身を守り、食べ物を自分の力で取って、7年間も生き延びたという事実からもうかがえます。
そこでイタールは、お風呂に入れる、ベッドで寝かせる、服を着せるなど生活環境を整えることでヴィクトールの感受性を高めようとしました。
これにより、感覚が改善され、知的能力の発達に寄与したという結果が出ています。
また、言語や知的能力が一般的な水準に達することはありませんでしたが、動作の模倣などの指導を5年間続けることで、周囲の人々との関係を広げることが出来るようになり、道徳的な発達を示すようになったようです。
彼の行った感覚訓練は弟子のセガンにより障害児教育を確立させました。
イタールの用いたプログラムは現在の保育士の教育には必ず出てくるモンテッソーリの幼児教育に繋がるものであり、人の発達を考える研究の礎を作ったのです。
野生児研究の心理学的意味
このように野生児研究は保育や教育分野で大きな貢献をしたことで非常に有名です。
しかし、心理学にはどのような貢献をしたのでしょうか。
生得説と経験説
心理学は古くから生得説と経験説という2つの学説のどちらが正しいのかについて議論がなされてきました。
【生得説と経験説とは】
- 生得説:人の特徴・能力などは生まれながらのもであり、遺伝的要因によって規定されるとする立場
- 経験説:人は白紙の状態で生まれ、発達過程における環境からの影響によりその人の特徴や能力が形作られるとする立場
例えば、ピネルが下した診断では、知的障害は生得的な脳の機能の障害によるため、野生児はどのような介入を行っても知的能力や適応のためのスキルを身に着けさせることは困難であるということになります。
しかし、イタールの行った介入によってヴィクトールは人間らしさの一部を身につけられたということは生得的な要因だけでなく、その後の経験によって修正が可能であるということを示唆しています。
それに加え、多くの人のような水準にまで言語や知的能力が発達しなかったという結果は、経験を行う時期の重要性を強調するものであると言えます。
動物行動学でのローレンツが刻印づけの研究を行ったように、ある特定の学習は成立が可能な期間に限りがあるのです。
このような初期経験の重要性を示唆する研究の代表例が野生児研究であり、その後の発達心理学に大きく貢献するものであったと言えるでしょう。
愛着
このような初期経験の重要性は後の愛着研究にもつながるものであると言われています。
愛着とは、幼児にとって重要な他者である保護者(主に母親)との間に築かれる信頼関係のことです。
この愛着は、お腹が空いたときに母親がご飯を用意してくれる、おむつを交換してくれるのように愛情を受けて育つことにより形成されます。
そして、その愛着は他の他者への基本的な信頼感の基盤ともなり、人間関係のひな型であるとされています(これを内的作業モデルと呼びます)。
しかし、幼い時に虐待のような不適切な養育を経験したり、親がいないという子どもはしっかりとした愛着を形成することが出来ません。
愛着理論の提唱者であるボウルビィは施設に預けられた子どもたちは親から愛情を受けてきた経験に乏しいため、問題行動を起こしてしまうと指摘しています。
このように、人間らしさの1つである相手との愛着に基づいた人間関係は初期経験によって左右されるものであり、野生児はこの点が欠けていることもあり、他者との交流に大きな問題を抱えていたのだとも考えられます。
日本での野生児の事例
野生児の研究ではオオカミに育てられたアマラ・カマラの研究やアヴェロンの野生児研究が有名です。
しかし、日本にも野生児用の事例研究があることはあまり知られていないようです。
志村ら(1993)は鹿児島県で保護された児童の事例研究を挙げています。
【事例概要】
対象児:T
Tは屋内に水道も井戸もないプレハブ小屋の中で社会から隔絶された環境で暮らしていた。
母と祖母は共に知的障害があり、アルコール依存症を併発。
健常者である父は行方不明で、母の姉のうち一人は非定型精神病に罹患している。
祖母と母親との3人だけで5歳6ヵ月まで暮らした後、知的障害児施設へ収容された。
Tは保護された当時、入浴をしたことが無く、排泄は垂れ流し、食事は手づかみと文化的な生活を起こる水準にいなかったとされています。
その後、施設での介入により運動や生活習慣など行動面では一定の発達を示したそうですが、言語面の遅れがひどく、発語は0、言葉を理解できないといった状態でした。
知能検査を実施したところ、IQは11と著しく低く、言語や対人関係面の発達の障害が認められています。
14歳時点では挨拶行動や場面の学習がある程度可能だが、コミュニケーションはほとんど不可能だったそうです。
もちろん、この事例では母親・祖母共に知的障害があり、遺伝によってTも知的障害をもともと持っている可能性も否定できませんが、社会から隔絶された環境が人間の発達に及ぼす影響はこの研究からも垣間見ることが出来ます。
野生児について学べる本
野生児について学べる本をまとめました。
初学者の方でも手に取りやすい入門書をまとめてみましたので気になる本があればぜひ手に取ってみて下さい。
謎解き—アヴェロンの野生児
アヴェロンの野生児は、イタールの取り組みが映画化されるなど広く知られる事例です。
しかし、その実際はどのようなものであったのかには未だに疑問の声が上がっていることも事実です。
ぜひ、本書からアヴェロンの野生児の謎を解いてみてください。
野生児の世界―35例の検討 (野生児の記録 2)
心理学において野生児の代表的な研究と言えばオオカミに育てられたアマラ・カマラやアヴェロンの野生児の研究が有名ですが、世界では多くの野生児研究が報告されています。
ぜひ、多くの野生児の研究に触れ、私たちが分化的な生活を送るために何が必要なのかについて考えてみましょう。
氏か育ちか
人間の特徴は生まれながらのものか、それとも学習によって形成されるのかという疑問に新たな視座をもたらした野生児研究ですが、現在は遺伝と環境の両方の相互作用によるものだとする立場が主流となっています。
野生児研究は非常に貴重な研究資料のため、私たちが普段考えている常識から抜け出すヒントになるかもしれません。
ぜひ、様々な野生児研究について触れてみましょう。
【参考文献】
- ハーラン・レイン(1987)『アヴェロンの野生児の認知・言語発達』The Annual Report of Educational Psychology in Japan 26 (0), 45-48
- 鈴木光太郎(2014)『ボナテールのアヴェロンの野生児』人文科学研究 135 T1-T30
- 志村正子・山中隆夫・園田順一・古賀靖之(1993)『IE-26 野生児様の1事例の追跡 : 1992年まで(臨床心理II)』心身医学 33 (Abs), 76-